2014年 12月 11日
自分にとって当たり前だけど他の人から「すごい」と言われるところは、自分の強みだと認識しようと思ったこと |
尊敬する友人、寧々さんがフェイスブックにあげていたつぶやきが心に響いたので、紹介。
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私にとって当たり前過ぎなこと、能力、意識、価値観、態度が、他人にとって「凄い」ことであったりすることは、よくある。逆もある。ネイティブ脳を始めて、違う価値体系で生きてきた人々と出逢うことが多くなってからは、さらに。
物凄く大風呂敷でいえば、自分の「当たり前」と自分から見て「凄い」と思う他人の「当たり前」を交換することが交易であり価値を産む進歩なんですわ。モノでも技術でも性格でも。胡椒貿易と同じよ。香辛料をのんべんだらりと生産してた人達は、いくら胡椒そのものを眺めても「胡椒ひと粒、金ひと粒」なんて発想出てこないでしょ。
だから、自分の価値に気付けないまんまでいるリスクを回避するためにも、世界に目を向け、ものさしを沢山持って居た方がいい。英語で己を語り、英語で世界を見る力を持とうぜ、というのは「英語出来る人材」になりましょう、なんてことではなく、そっちが主旨だったりするのよ。特に日本の能力ある人は不当に自己評価が低かったりするし(書店にはとんちんかんな日本絶賛コンテンツが並んでるけどそっちは役に立たなさそうだし)、もったいないのよ。
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私はまさに寧々さんにとって当たり前だろう彼女のあらゆる面をつねづね「すごい。。」と尊敬してやまないうちのひとりなのだけど、このつぶやきを目にして、ふと思うことがあった(寧々さんと並べて考えてしまうこと自体とってもおこがましいことではあるのだけど。。レベルが全然ちがうので。。汗)。
私もたまに主に努力をいとわないところと、勉強好きということに対して、「すごい」と言われることがある。直近でいえば、ソウルで院に行ったことに対してとか、院の勉強につんのめっていたこととかに対して。でも、正直なところ、努力と勉強好きというのは、私が生まれつき「たまたま」持っていた性分であって、それが「たまたま」、主に日韓では「いいこと」として社会的に認められている行為だった、という側面が大きいと思っていて、なんていうか、好きでやっていることに対して、そういう賛辞を受けることについて、ちょっとぴんとこなかったり、戸惑ったり、ときになぜか申し訳なく感じたり、違和感を持ったりもしていた。前に佐野洋子さんのエッセイで、「本当の子供好きっていうのは、もともと無条件に子供というものを愛してやまない性質を持っているっていうだけで、対象が子供だからもてはやされているだけだ。それが女好きとか男好きだったら、その人がたまたま女や男を好きで仕方ないっていうだけなのに白い目で見られるから、社会はおかしなものだ」というような文章を読んでから、特にそういう気持ちが強くなっていた。
でも、寧々さんのこのつぶやきを読んで、佐野洋子さんがエッセイに書いたような側面がたしかにあるのを理解しながらも、そのうえで、他人が「すごい」と言ってくれる自分の特徴を、自分の強みとして自覚して、そこを生かしていこうとする姿勢も大事なんだな、と思えるようになった。
それから、これまた別の友人の指摘で気づいたことだけれども、たとえばソウルで院に行くっていう行為は、あくまで結果であって、根底にあるのは、与えられた環境の中で、その制約の中で、自分がより充実感を得られる、喜びを感じられる場を作っていこうとする私の価値観や人生に対する姿勢であって、「すごい」と言ってくれる友人たちの一部は、「努力」とか「勉強」とかいう社会的な価値観に沿った賛辞というよりも、友人としてそこに共感してくれている、ということなのかな、という風にも考えるようになった。
というわけで、これからは「すごい」と言ってもらえたら、素直に受けとめて、自分の強みなんだと自覚して、生かす方向で考えようと思います。
by moriyumi0721
| 2014-12-11 10:56
| 考え事